家訓


我が友人一老商に市店盛衰の原由を問ふ。
老商答て曰く、夫れ基本に応して其地を撰み
適宜の物を商ふに薄利を以し得意を敬ひ
質素を旨とし主人は油断なく召仕は骨を折る。



是れ其家の興るべき基礎にして
衆客の方向悉く此家に帰すべし。
何ぞ盛大に至らざらんや。
而して意に大店と成り登り財を積み庫を建て
親族敬し同業服し其威自ら高く其権自ら強く
主人誇り召仕懈り始て茲に衰頽の兆しを顕はす。
是れ一般の通理なり。



去れば家の盛ならんとする時は
上下悉く意を勉励に用ゐて一髪の透なく
朝夕栄利の増加するを視る。此を以て益々盛なる也。



若し衰んとするに及ぶ時は之に反し主僕相倶に
威権を振ひ寝食座臥只安心して永世不朽の家産也と思ふて
敢て其習しに梧葉秋風の生ずるを知らず。



患難頓に来たって始めて自ら其衰ふるを視る。
此を以て困窮意に挽回す可らざるに至る也。
此境を知る事最難しと雖とも我れ足下の為めに
深秘を惜まず一語以て告げん。



凡そ人貴賎貧富を論ぜず他を軽蔑侮視するの念
胸間に発せば是れ則其衰頽の気の生する所ろ
百般の災害是より襲来すべきなりと
此言や百発百中決して違ふ事なし
我れも深く感じて世の蒙者に報ず。< 扇四呉服店中村家の家訓 >