君子の交わり


何であれ、自らの情緒は正義だと信じている人は度し難い。多くの人々が少数派の情緒に寛容になれば、世界はずいぶん平和になるだろうと思う。大義名分の下に自分の秘かな欲望を満たそうとする行為が、人間として最も下品な行為なのだ。


他人に自分の心の中にずかずかと侵入されたくない人は、自分も他人に甘えてはいけない。最初から無二の親友がいるわけではなくいつ別れてもよいのだ、という心構えでつき合っているうちに、結果的に三十年も五十年もつき合ってしまった、というのが無二の友の真の姿である。すべての他人は自分にとってワンオブゼムに過ぎず、自分もまた他人にとってはワンオブゼムに過ぎない。
他人と気持ちよく長くつき合うには、恩を売ったり買ったりしない方がよい。自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格がない。惚れたのはあなたの勝手なのだから、相手をうらんではいけない。


同じように見える行為がある時は労働になり、ある時は遊びになるのは、労働や遊びは文脈依存的な概念だからである。
穀物は貯蔵可能なので、収穫量は多ければ多い程よい。労時間は増加した。収穫量は労働時間に比例し、働ければそれだけ飢える恐怖は減るからだ。
わけ知り顔の世間の人たちは、「 労働とは自分が苦労をして他人を喜ばすことに意義があるのだから、つまらないと言ってすぐにやめたりしないで頑張らなければいけない 」と知ったようなことを言う。そういう言説を真に受けて、労働が楽しくなる人は、元々人のためになにかしてあげて感謝されるのが好きな人なのである。


自尊心というのは受動的にしてさえすれば、守られるというものではないのであって、ぎりぎりの選択の時にこそ試されるべきもの。ただ、人生の最期ぐらいは自分で決めた方がよいのではないかと思うだけだ。医者の言う通りにして、後で後悔するのはバカである。



引用文献: 「 他人と深く関わらずに生きるには 」 池田清彦 著、新潮社 刊