青年に告ぐ


 
どこの國でも青年は、「 民族のさわやかな春 」である、あるいは、「 祖国の聖なる春 」であると、云われております。青年が、時代の汚れに染まるほど惜しいことはありません。

昔から酔生夢死という言葉があります。
しかるに現代は、日常生活がますます忙しくなり、とりとめのない仕事、たわいもない娯楽ぐらいに、知らず知らず時を費やしてしまって、昔よりもっと酔生夢死的になっております。

否、酔えたり夢中であったりできるのはまだ好いほうで、その酔いや夢さえ、今日では無くなりつつあるのでありますまいか。
  
昔は人間の目は、一本の蝋燭や油にひたした一本の灯心で足りておりました。
その頃の学者は夜好んで仕事をしましたが、彼らはゆらめく貧弱な光の下に、平気で読みもし、著作をしたものです。しかるに今日の人間は、百燭光を必要といたします。

昔は馬の走る早さで満足しておりましたが、今日では急行列車、特急列車もまだ遅く感じられ、電報などは、じれったいのであります。
耳はオーケストラの全音量を要求し、ひどい不協和音を受け入れ、トラックのとどろきや、機械の叫びや、唸り声に慣れ、それらの騒音が音楽会で演奏されることをさえ、望むのであります。

そういう事実から、人間の感覚が、現代においては頽廃しつつあるという事を確認する事が出来ましょう。
我々は何かを感ずるために、昔よりも更に強い刺激、更に大きなエネルギーの消費を必要とするということは、我々の感覚の繊細さが、一時は洗練されておった時代がありましたが、今やまた衰え、あるいは病的になりつつある事の証拠であります。

青年は、理想と純潔とを生命とする。
これのみが時代を救い、時代を創造するのであります。

青年の志ある人々は、群集と騒音の中に埋没してはならないということを、歴史と真理に基づいて深く反省しなければなりません。


引用文献: 「師と友」(昭和35年130号)、安岡正篤 著、全国師友協会 編