管理社会は何も生まない その2

日本でエリートと呼ばれる人たちというのは、結局、管理が上手な人たちのことである。役人は言うまでもなく、CEOとかCFOとかの会社のエライさんたちの仕事だって、早い話が管理をすること。そして、近頃は無闇やたらにそんな仕事ばかり。
極端な例かもしれないが、北九州市年金問題では餓死者が出たり、管理責任を問われて自殺する人が出たりとか、「 管理が成功するためならば、金がかかろうが、人が死んでもかまわない 」といった本末転倒なことまで起きている。


「 管理 」というのは規則に従わせることである。何が正しくて何が間違っているのかを決める仕事は、役人と天下りの元お役人たちとで回していたわけだ。現役の官僚としてルールを決めたり摘発する側にいた人が、次は民間に場所を変えて、それが順法かどうかを調べる人になる。こうした仕事の順送りが、減るどころか、もはやあらゆる業界に存在している。いろんな規則が作られては、それらを専門に管理する ( もしくは取り締まる )資格ができる。そして管理することだけで十二分にメシを食っていける仕事が出来上がる。
ここで問題なのは、「 仕事は増えているけれど、何も価値を生んではいないし、何も消費されていない 」ということである。こうした官僚的な仕事、官僚的なコストを増やしていっても、社会的な価値を生み出すことはなく、幸せだと感じているのは権威をふるえる管理している側の人たちだけなのである。いったい何のための管理なのか、疑問に思うことはありませんか?


何も管理は全部悪いとか、管理なんかいらない、と言っているわけではないのです。
しかし、規則って、ほんとはひとつもないのが理想だと思う。規則なしで世の中が動くんだったら、そのほうがいいに決まっている。でも実際はそうもいかないので規則はある。だからこそ、規則がひとつでもあったら、「 しかたがない、みなさん申し訳ないけれど、いざというときはこの規則の言うこと聞いてくださいませんか 」という心持ちが管理の仕事には必要だと思うのです。