自分のため

CSRの専門家とか、コンサルタントや大学の先生方は、CSRを実現している理想的な企業として、欧米の会社の実例をベストプラックティスとして推奨される。( “れ”は尊敬語)
GRIガイドラインやISO26000などの形から入れば、どんな会社でもCSRが実現できるようなことをおっしゃるが、そのための大前提が見えていないように思う。それは動機である。


日本では、「 世のため、人のため 」、「 利益はあとからついてくる 」のがCSRの理念だと言われている。そこに私( わたくし )はない。CSR道を追求する日本人の美学である。ところが、外資系で働くうちに見えてきたのは、彼らの動機は 「 自分がどう評価されるか 」に尽きるのだ。結果として世のためになるのかもしれない、結果として人のためになるのかもしれない。でも、動機は、それをやることで自分の評価は上がるのか、ポジションは上がるのか、ボーナスは上がるのか、なのである。評価といっても利益だけで判定されるものでもないから、結構いろいろなことを考え、やるべきかやらざるべきかを判断する。結果として、カッコよく振舞っているように見えるのである。
だから彼らは評価されることにはとても敏感に反応する。そして良い評価をされそうだと思ったら、やったことは針小棒大に、他人のやったことでも自分がやったようにアピールする。それは、それはお上手なのである。
GRIガイドラインがどうしてあのような形なったのかが腑に落ちたのも、そのことが判ったからである。
全ては評価から始まる。人間は評価されることはすすんでやる。これは実に単純な理屈である。CSRも例外ではない。褒められて、評価されて、実利も伴うのであれば、どんどんやるのはあたりまえだ。


CSR専門家とか、学識経験者の先生方はすぐに“ べき論 ”をお話になる。「 会社としてCSRを推進すべき 」。ごもっともなのだが、今の日本の会社では矜持だけではCSRは進まないのも事実。やった人間を正当に評価する個別具体的な手法が必要だと思う。
大上段に構えなくとも、コツコツとやったことが巡りめぐって世のため、人のためになる。それでいいじゃないですか。そういうことをきちんと評価してあげましょう。