はひとりひとりの行動から


私は集団が苦手である。集団で行う運動を生理的に受け付けない。集団が圧力団体として主張していることが信用できないのである。確かに集団のほうが発言を通しやすいし強気になれる。大勢を味方につければ自分たちの主張を通すこともより簡単になるだろう。
でも、団体としてでしか発言できないのは不自然であると思っている。環境保全運動、人権擁護運動、フェミニズム運動、あらゆる運動に、私は何か妙な感じを受けてしまう。「 私たちは正しいことをして世の中を良くしているのよ。だから、あなたは私たちに協力して当然なのよ。そうしないあなたは人間のクズなのよ。」 私には団体の言っていることが幻聴のように聞こえてしまうのだ。私はひねくれているのかもしれない。

自然保全を訴えている団体の事務所へ行ってみると、ペットボトル、空き缶、紙ゴミを1つのゴミ箱に捨てていて、 「 いやなに、業者が分別してくれますから 」 などと言っている理事長さんがいるのである。CSRガイドラインの普及・啓蒙活動をしている団体が主催するセミナーで、最前列の席で机の上に靴を履いたままの足を投げ出し、講師に大声でクレームをつけているのがその団体の理事さんであったりするのである。( ※ 講師は身内の方だったようですが… )

「 とんでもない人たちが集まっているが立派な団体だ 」などということは絶対に、ない。個人の誠実さの集合は全体の誠実さに通じる。これはどの組織でもいえることだ。

もちろんたいていの団体のお題目は立派で正論だから、議論すると負けてしまう。だから議論はしない。私としては、発言するときには団体の看板で発言するのではなく、個人の意見として堂々とやってもらいたいと思う。信用のおける人が誠実に話してくれると、私は素直に従えるのである。

悪党のことを英語でパルチザンという。このパルチザンに日本はかつてシベリアでひどい目にあった。


パルチザンのパルトというのはパーティーすなわち党だ。このごろの人間は何かというとパーティー、パーティーと言う。これは自主自立性を失っておるということの、一つの社会的表現だ。個人では存し得ない。


さびしくて、無内容で、だから何か組になる。グループとも言うね。グループというのは群、群れということだ。優れた個人が寄ってグループを作る、パーティーを作る、これは大変いいけれども、己れの無内容をごまかすためにグループやパーティーを作るというのはつまらない。


悪党はそれを逆用して、自分の悪をなす上において、これを守り、これを強化するために、グループやパーティーを作ることに本能的にたけておる。だから党しない善人と、党にたけておる悪党とが喧嘩すると、まあ大抵の場合、悪党が勝つね。


そうすると悲惨なことになる。その結果、これはいかんというので苦労して今度は盛り返す。これが昔からの歴史の慣習である。


だから平生において、悪の力が結集して強くならぬうちに、悪というものはどんどん去らなければいかん。ただ、去る上において、悪党は攻撃力が強い。

引用文献: 「 続人間維新 」、安岡正篤 著、邑心文庫 刊