人間とは何か


外的な思考法に慣れた人は、科学的または社会学的な統計や平均値によって人間を知ろうとするかもしれない。体脂肪率や、平均年収、平均寿命、世論調査、いろいろなデータが日々発表されて、興味を惹く。しかし、それをいくら積み重ねても、人間の本質は浮かび上がらない。それどころか、他人と比較されたり平均値でものを考えることで、自己概念はむしろ希薄になり、混乱する。
子どもが他人と比較され続けると、健全な自己概念をもてなくなるのをみればこのことがわかる。
現代社会では、画一的な教育システムや、テレビその他のメディアの発達、そして、マーケティングで吸い上げた消費者動向をもう一度広告によって扇情的に投げかけて大衆を動かすという手法の発達によって、人の内面の没個性化、均質化が進んでいる。
だから「 人間とは何か 」は、「 自分とは何か 」、「 自分とは誰か 」を通じて探求していくものとなる。



「 群盲、象を撫でる 」という格言がある。この言葉は盲人という言葉がタブーになってしまったので今ではほぼ語られることがなくなってしまったが、重要な概念を含んでいる。
この言葉の意味は、盲人が象を撫でると、耳を撫でたものは象とは扇のようだと思い、尻尾を撫でたものはヒモのようなものだと思い、脚を撫でたものは柱のようなものだと思う……ということだ。
もちろん、これは盲人を揶揄したものではなく、ここでいう盲人とは、人間一般であり、象とは、真理や神のことである。人は神のことを考えたり、想像したりすることはできるが、ついにその全体像をつむかことはできない、ということだ。そして、自分がつかんだと思ったものだけで、全体を語ろうとすれば、誤るということである。つまり、真理や神の前では、人は謙虚で慎重でなければいけないということである。



「 人間とは何か 」という問いに答えることも、じつは象を撫でることに似ている。
ある人は経済的な安定や成功を最高の優先順位として人間を語るだろうし、ある人は愛こそはすべてというかもしれない。かつての侍は、義務を果たすことや、名誉を最大の優先順位においていた。

たいていの人はすぐに答が出ない深遠なる問いは目の前の現実に対して無益だし、自分にはその余裕がないと感じるだろう。 「 人間とは何か 」がわからないということは、自分自身がわからないというである。しかし、人は自分のことをよく知っている、自分自身は既知のものだといつのまにか思いこんで生きている。ここに深刻なギャップが生じる。
つまり、この状態が「 < 自分自身を知らない >ということを知らない 」ことである。これが人間の最大限の「 無知 」である。ソクラテスは「 < 自分自身を知らない > ということを知っている」ことを「 無知の知 」と名付けた。


「人間とは何か」と問い続けることは、人間自身に内臓された本能といってもいい。今年はちょっと立ち止まって、自分の答を探してみたい。