正直に生きる。正しく生きる。


コンプライアンスを難しく考える必要はない。 「 正直じゃない。正しくない。」 ことはしない。ただそれだけ。

コンプライアンスなんていう言葉が世の中に満ち溢れているのは、「 正直じゃない、正しくない 」ことが横行しているから。そこで言われているコンプライアンスとは 「 最低限、法律は守ろう 」という消極的な行為にすぎない。「 法令を守らないと後々損をしますよ。会社がだめになりますよ。いずれバレますよ。」 というネガティブな説得。もしくは 「コンプライアンスを確立しなければならない。それが資本主義なのだ、自由経済なのだ。コンプアライアンスを守らないと経済が破綻するのだ。」 という強制的な説得。

どちらも表面的で薄っぺらい説明だ。コンプライアンスはもっとポジティブな実践であると思う。
「 正直であろう。正しくあろう。」と行動していると、この世の中ではいろいろな困難や衝突が起こる。企業社会の中で生活しているとどうしても自分の中の「 正しい 」基準が揺らいでしまうような 現実に直面することがある。 しかし筋を通した者が最終的には成功するのだ。


誰しも相手に対しては、「 正直であって欲しい。誠実であって欲しい。」 と望む。それならば自分もそうでなくてはならない。みんなが正直であればビジネスがしやすくなるのはもちろん、とても住み心地の良い世の中になる。根本はそんな素朴なところにあるのだと思う。


コンプライアンスという言葉がビジネス用語として使われるのは、集団になると間違ったことをしやすくなるからだ。集団心理が働くからである。集団のなかでは普通のことであっても、外から見るとおかしい。そんなことはたくさんある。集団だからこそ間違ったことをする。正直でなくなる。集団だからこそ麻痺しやすい。だから 「 コンプライアンス 」とひつこく言う必要がある。


コンプライアンスは日本では「 法令遵守 」と訳されているが、「 法律さえ守ればいいんでしょ 」という態度では形式主義になってしまう。 先ずは法律を守る、正直に生きる、そして信頼に応える、ということがコンプライアンスの本当の意味なのではないだろうか。
日本では昔から「 お天道様に恥ずかしくないように生きる 」という精神があるではないか。これこそコンプアライアンスの本質なのだと思う。

  • ほかのみんながしていることによって、自分の倫理観をこしらえてはいけない。ほかの人たちが正直で正しいことをしているとはかぎらないのだから。
  • 正直で正しいことをした報酬は、受け取るまでに時間がかかる。
  • " 二者択一 " という難しい選択をすることによって、倫理的な問題を考えてはいけない。選択肢はきっと、ほかにもある。
  • 短期間で手に入るものに惑わされないこと。"短距離走者"たちはいずれつまずく。彼らに追い越されても自信をなくさないこと。
  • 何も言わないことによって引き起こされる結果は、声をあげることによって引き起こされる結果より、つねに深刻である。
  • 正しいことをした場合の結果と間違ったことをした場合の結果を冷静に考え、正しいことをすることによってもたらされるチャンスを生かすこと。
  • 心にみじんも重荷を感じることなくレースを終えることこそが、本当のゴールである。寝ても覚めても嘘のことが頭から離れない。そんな状態でないことが、どれほど自由かよく考えること。

引用文献: 「 ウサギはなぜ嘘を許せないのか 」 マリアン・M・ジェニングス 著、山田真哉 訳、アスコム